INICIAR SESIÓN「女性用の服は、ありません」
イヒョンはボタンにかけた手を止めた。
目の前の男は、もう背を向けていた。うなじは日に焼けているのに、耳の先だけが赤かった。
イヒョンは少し、その背中を見た。
女性用の服?
* * *
目を覚ましたのは、明け方だった。
知らない天井と、薪の匂い。
寝台の横に男がいた。大きな体を狭い椅子に押し込むようにして、眠っていた。斜面から引き上げてくれた人だった。
斧と、ひっくり返る森を思い出した。
まだ、自分が男の手首を握っていた。
離すと、男が目を開けた。
「どこか、痛みますか」
寝起きの声が、低くかすれていた。
「足首が、少し……」
男は脚を見て、水を差し出した。上体を起こすと、背に枕を入れてくれた。大きな手が近づき、イヒョンはびくりとした。
男はすぐ引っ込めた。
「驚いたよな」
「さっきは、熊かと思いました」
言ってから、イヒョンは口を閉じた。
男が自分を見下ろした。
「熊は、斧を持ちません」
イヒョンの口から笑いが漏れた。笑って咳き込むと、男の表情がすぐに固くなった。
「ゆっくり」
コップを支える手は、驚くほど慎重だった。
イヒョンは名を告げた。
「イヒョンです」
男の視線が、少し顔に留まった。
「ムジン」
「助けてくださって、ありがとうございます。ムジンさん」
答える代わりに、ムジンはストーブへ薪を入れた。
* * *
明るくなっても、雨はやまなかった。
道を見て戻ったムジンは、沢が増水していると話した。上の尾根に救助を求める印を残してあり、水が引くまで小屋にいなければならないという。
今ごろドユンは、自分を探して山を歩き回っているだろう。
申し訳なかった。
それなのに、ここで朝食を食べることが、少しうれしかった。食卓には温かい粥、窓の外には森があった。
ムジンは向かいに座らなかった。
顔を上げるたび、別の仕事をしているふりをした。
「怖いですか」
「いや」
「じゃあ、どうして避けるんですか」
ムジンは持っていた器を置いた。
「避けてません」
また耳が赤くなった。
イヒョンはそれ以上聞かなかった。
濡れた服では不快だろうと、ムジンが体を洗う湯を用意した。
部屋の隅の木の浴槽を拭き、古い布を掛けて仕切りにした。水を混ぜ、肘を入れて温度を確かめた。
タオルを置き、移し、畳み直した。
「熱すぎたら、言ってください」
イヒョンが足を下ろした。痛みに息を吸うと、すぐムジンが近づいた。
「体重をかけないで」
腕をつかんで立った。
ムジンは、イヒョンの体勢が整うと下がったが、手はすぐには離さなかった。
イヒョンが顔を上げた。
目が合った。
先にそらしたのは、ムジンだった。
* * *
ムジンは木箱から、いちばん小さな服を選んだ。それでも袖が長く余りそうだった。
なぜそんなことまで気になるのか、考えないようにした。
ソリンが来るときは、こうではなかった。隣に座り、手の甲に触れて話しかけられても、帳簿の数字は読めた。
今は部屋の向こうで服が擦れるだけで、顔が向いた。
「外にいるので、洗ってください。転びそうなら呼んで」
「一人で入れるか、どうか……」
イヒョンが浴槽の縁を見た。
答えかけたムジンの視線が下がった。指先が襟元をほどいていた。濡れた布が首から離れた。
喉が渇いた。
慌てて背を向けた。
「俺が出てから、脱いでください」
背後の動きが止まった。
服を、もう少し近くへ寄せた。
「女性用の服は、ありません」
「どうして、女性用が要るんですか」
「……不便かと思って」
「ムジンさん」
呼ばれて振り返った。
イヒョンは、ほどきかけのボタンを持ったまま見ていた。かすかに笑った。
「僕、男ですよ」
ムジンは何も言わなかった。
ストーブで薪が崩れた。
持っていたタオルの端が床についた。気づかなかった。
男。
意味を理解する前に、その言葉は昔の声を連れてきた。
おまえみたいな――
ムジンは歯を食いしばった。
イヒョンの笑みが消えた。
「……ムジンさん?」
タオルを置き、扉へ向かった。
「洗ってください」
声が、よそよそしく硬くなった。
扉を閉めると、冷たい風が顔に触れた。軒の下で立ち止まった。
目を閉じた。
それでも、今見た顔が消えなかった。
そのことが、何より怖かった。
家というより、歴史のある施設のように見えた。ムジンは車窓越しに高い塀と正門を見た。紋章を刻んだ鉄の門が開く。車が中へ進む間、手のひらのまめをこすっていた。隣でイヒョンが訊いた。「遠いでしょう?」ムジンは首を横に振った。遠いのは道ではなく、高いのは敷居だった。鞄を膝へ引き上げた。* * *用意された部屋は、本館の隣の別館にあった。ベッドと机、浴室のある静かな部屋だった。管理人は必要なものがあれば呼んでほしいと言い、呼び鈴を示した。ムジンは鳴らさなかった。鞄を置き、まず窓を開けた。庭の向こうに本館の明かりが見える。イヒョンがどこにいるのかは、わからなかった。ノックがした。イヒョンだった。「僕の部屋、あっちです」ムジンが訊く前に、窓の外を指さした。「明かりが三つついているところ」「一人で歩いてきていいんですか」「廊下ですから。崖じゃありません」ムジンは口を閉じた。イヒョンは部屋を見回し、椅子に座った。小屋にいたときのように袖を触り、今日の服は手に合っていると気づいたように、手を下ろした。ムジンはその短い動きを見逃さなかった。* * *夕食には、家族が何人か同席した。
イヒョンの母は、まずムジンの靴を見た。泥は落としてあったが、革の隙間の汚れまでは消えなかった。ムジンは足を椅子の下へ引かなかった。「息子を助けてくださって、ありがとうございます」丁寧な挨拶だった。ムジンは頭を下げた。テーブルには、薬草の確保と研究協力についての書類があった。担当者は必要な期間の費用と宿泊先を提供すると説明した。ムジンは報酬より先に期間を訊いた。「いつまで必要ですか」「分析の結果によります。まず一週間ほどと考えています」ムジンは書類を読んだ。読む速さを見て、母の視線が再び彼の顔へ上がった。* * *署名の前に、ムジンは一つの項目を指した。「ここは変えてください」担当者が身を寄せた。「採取量は保証できません。雨が降れば採れませんし、同じ場所でも状態は変わります」書類に修正が入った。ムジンは日付と範囲を確かめて署名した。母はその手を見ながら訊いた。「以前も、こうしたお仕事を?」「薬草を納めています」間違った答えではなかった。母はそれ以上訊かなかった。代わりに、イヒョンの病状に関する話は必ず医療スタッフを通してほしいと頼んだ。「あの子、期待が大きくて」ムジンは
イヒョンが先に一歩踏み出した。ムジンは椅子をよけて近づいた。足首を見ようと目を下げたせいで、差し出された手に気づかなかった。小さな手が、宙で止まった。「薬草のことで、来たんですか?」ムジンは鞄の紐をつかんだ。「はい」イヒョンはゆっくり手を下ろした。間違ってはいなかった。鞄には薬草があり、担当者にも会った。まだ説明することも残っていた。けれど、間違っていない言葉でも人をがっかりさせるのだと、ムジンは遅れて知った。「そうなんですね」イヒョンは笑顔を作り直した。「どうぞ」* * *病室には花が多かった。ムジンは鞄をどこに置けばいいかわからず、持ったまま立っていた。イヒョンが椅子を一つ空けた。「ここに」ドユンは医療スタッフと話してくると言って出ていった。扉が閉まると、二人は急に言葉を失った。イヒョンが先に口を開いた。「ご飯、食べましたか?」「まだ」「朝から?」ムジンは時計を見なかった。イヒョンは呼び出しボタンへ手を伸ばしかけ、止めた。代わりに電話で軽い食事を頼んだ。ムジンが大丈夫だと言っても、聞かなかった。「ここでは、僕が世話をします」
街は、ムジンの記憶より明るかった。バスの窓に看板と信号が重なった。人々は同じ方向を向いて立ち、信号が変わると一斉に動いた。ムジンは紙に書かれた住所を見直した。病院名の下に、イヒョンの名前があった。それさえ確かめればよいのに、紙を畳んでは開いた。鞄からは、乾いた葉の匂いがした。* * *受付の職員が顔を上げた。「どなたにご面会ですか」ムジンは名前を告げた。職員は画面を確かめ、面会の予約はあるかと訊いた。ムジンは研究員の連絡先を差し出した。短い電話のやり取りがあった。その間、後ろにいた人たちは鞄をよけて歩いた。枝で擦った手の甲と、古い靴がやけに目についた。山では何でもなかったものだった。「こちらにご記入ください」紙が差し出された。名前。連絡先。訪問の目的。ムジンはペンを持った。姓を書こうとして、手が止まった。この十年、村では名前の二文字だけで足りた。ゆっくりと、すべて書いた。職員はその字を見て一瞬顔を上げ、また書類に目を落とした。ムジンはもうペンを置いていた。「研究棟から担当者が参ります」すぐにはイヒョンに会えなかった。ムジンは、わかりましたと答えた。* * *研究員は彼
「自分で行くんですか?」ソリンは鞄とムジンを見比べた。ムジンから店に連絡すること自体、珍しかった。尾根で途切れそうになる電話をつなぎ止め、今日中に来てほしいと言われたときは、けがでもしたのかと思った。ところが、小屋の戸口に鞄があった。「薬草の説明が必要です」「記録は送ったでしょう」「記録だけではわからないこともあります」ソリンはそれ以上訊かなかった。ムジンは手紙を持っていた。読み返して畳んだ跡が、何重にもついている。ソリンは鞄を開けてみた。着替えが二組。薬草。古いノート。「どのくらいいるつもりですか」「わかりません」「なら、お金を先に入れてください」持ってきた封筒を食卓に置いた。前の取引で残っていた代金だった。今度は余分に入れなかった。ムジンが受け取らないことを知っていた。ムジンは封筒を鞄の内側にしまった。* * *ソリンは残った薬草を確かめた。ムジンの留守中は湿気に気を配り、取引の日には必要な分だけ運ぶことになった。小屋の鍵を渡されると、少し妙な気分になった。何年通っても、渡されたことのない鍵だった。喜んでいいのかわからなかった。「あの方、そんなに悪いんですか」ムジンはうなずいた。「それで、行くんですね?」
見知らぬ革靴が庭に入ってきた。ムジンは斧を置いた。先に立つ男が、丁寧に名前を確かめた。その後ろには、標本箱を持った女がいた。「イヒョン様のご依頼で参りました」その一言で、ムジンは戸を開けた。* * *管理人はまず封筒を差し出した。ムジンは受け取ったが、すぐには開けなかった。上質な紙の感触を、手が覚えていた。封筒の紋章も知っている。裏返して、食卓に置いた。研究員が薬草について訊いた。ムジンはノートを持ってきて、採取した場所と日付を示した。春の葉と秋の葉を分ける理由も説明した。女は記録を取り続けた。「同じ場所で、さらに採れますか」「少しなら」「多く必要になるかもしれません」ムジンは顔を上げた。「どのくらい」「まず成分の分析と、同じ結果が出るかの確認から進めます。むやみに大量に使うという意味ではありません」それを聞いて、ムジンは次のページをめくった。管理人は食卓や寝台を見回した。低い天井と古い椅子が気になるようだったが、顔には出さなかった。「こんなところで、一週間も……」ムジンの手が止まった。研究員が先に口を開いた。「記録がしっかり残っていますね。とても助かります」ムジンは彼女のほうへノートを押しやった。